統一教会のこと
もうxx年以上前の話だから、今とは全く状況が異なるかもしれないのですが、安倍元首相の暗殺に関連して統一教会が話題になっているようなので、当時自分が興味本位で経験したことを書いておきます。あまり参考にはならないかもしれませんが、この機会に自分なりに整理しておこうと思いました。事実として何かを考えるきっかけになればと思います。当然のことながら、自ら興味本位でやっつけてやろうとか妙な正義感で深入りしてしまうと戻れなくなる可能性もあります。ご自身がエンゲージするには非常にリスクが伴いますので、そのことだけは初めに申し上げておきます。ワタクシがそのようなリスクを冒しながら深入りせずに帰還できたのは、正直運がよかっただけかもしれませんので。
(なお、本格的にその教義やロジックとそれに対応するための論理や反証などを勉強したい方は、北海道大学の櫻井義秀先生の書いたものが参考になると思います。)
I. かかわりの始まり
当時のワタクシは、好きな子に熱を上げては振られ、授業は適当にこなしてサークル活動などに打ち込んでいるような、ごくありふれた大学生でした。親元を離れた解放感とその一方で若者らしい関係性の構築に飢えた状況のなかで、いろいろな好奇心を満たすことに積極的でした。
ある日、地下鉄の入り口付近で若くて清楚でとてもまじめな感じの女子学生っぽい人に声を掛けられます。ワタクシより少し年下ぐらいの子です。若さゆえに異性への興味も強かったワタクシは、そこで立ち止まりました。
「すこし、お話しできますか?」相手は聞いてきます。
「どういう話でしょうか?」
「今の人生やこれからのことについて、きっとあなたの役に立つお話しです」
実を言えば、すでにこの段階で、ワタクシはこの手の人々が統一教会関係者であることを知っていました。地下鉄の入り口近くにはその団体の拠点があることも知っていましたし、すでにこれまでも何度かそのような声掛けをされたことがありました。なによりも、大学構内で共産党系の「民青(民主主義青年同盟=共産党の下部組織)」がビラなどでそういった団体の危険性について手口も含めて知らしめていたからです。当時は統一教会の学生活動家たちは別途「勝共連合」と呼ばれる組織を結成していました。名前の通り共産主義に対して過激に対抗するための組織であり、一応キリスト教をバックグラウンドとする統一教会としてはある意味当然と言えば当然ですが、共産党系の団体とはかなり激突していました。(この辺が保守勢力と結びつく背景になるのでしょう)。
ともあれ、ワタクシはすでにその段階で相手の女性が統一教会の人であることをわかっていましたが、その時はなぜか「魔が差した」というか、一度ちゃんと話を聞いてそれで批判してやろう、と思ってしまったのです。若気の至りだと思います。そして、彼女の後についていき、統一教会の拠点のオフィスに連れていかれました。
II.教義を勉強する
オフィスの中は非常に整頓されていて、ゆったりとした雰囲気でした。雑誌の棚には「ムー」とか「ニュートン」とか当時はやっていた一種の科学雑誌などが並べられ、あたかもこの団体の主張が科学的にも正当であるということへの自信のようなものを来訪者に与えるような演出がされていました。もちろん「世界日報」もありました。
まずは、私を誘った女性とその上の方(女性)が同席して面談が始まります。一般的な生活のこと、家族のこと、趣味その他といった話から入り、聖書の話に進みます。この辺までは一般的なキリスト教系の勧誘と似ています。そして、聖書を勉強することでいろいろなことがわかるのだ、いろいろな悩みにも答えが出せるのだ、という話をしてくれます。ここから先は一般的な聖書の話が続き、原罪、救世主といったキリスト教の一般的な教えをなぞるような流れとなります。もちろんこの段階ではあくまで一般的なキリスト教の勧誘のような内容になっています。話の持っていき方としては、対象者(この場合ワタクシです)の悩みや苦しみを聞き出し、それについては「前世のカルマ」とかそういう「罪」が根っこにあることを説得しようとします。「キリスト教」的な考え方が救いになることが示唆されます。後述のようにワタクシはもともとあまり悩まないいい加減な人間である上に家庭についてもそれほど苦労させられたりした経験もないもので、初めからそれほどかみ合いません。でもまあ話をつづけました。
彼らは焦らずゆっくりと応対してくれます。初回はその程度で、次回の来訪を要請されます。ワタクシは話しかけてくれた女性のかわいらしさにも惹かれて、次回の来訪を約束しました。二回目の訪問時も、引き続きキリスト教や神様についてのディスカッションでした。何回目かは覚えていませんが、何回か机上での話があったあと、さらに勉強を深めるために「ビデオ」の継続的視聴を勧められます。このビデオの中に「真理」が示されているのだと。
ワタクシとしては、ちゃんと当初の目的である「相手の教義を理解したうえで批判する」という目的のために、ちゃんと勉強しようと腹をきめて、受講を受諾します。多分無料だったと思います。勧誘した女性からは「聖書」(ごく普通のやつです)をもらいました。きれいな手作りのカバーがかかっていました。とてもじゃないけれど捨てられなくて、その後引っ越しのどさくさで行方不明になるまでその後何年かは大事に持っていました。
初級編は全部で12~3回ぐらいだったかと思います(正確には覚えてません。もしかしたら初級、中級それぞれ6回ほどだったかも)。ちょっとヤクザの下級幹部っぽい雰囲気の講師が、非常にわかりやすく話を進めていきます。最初は本当にキリスト教原論といった講義内容です。多くの点で全く間違っていない。歴史を紐解き聖書の記述をベースに進んでいきます。しかし進んでいくうちに、一般的なキリスト教とは異なる解釈がちらほら出てきます。最初に疑問をもったのは「復帰摂理」といわれる、1000年ごとに一定の大事件があり、その都度神のもとへ人が復帰できるチャンスがあるのだという説です。一応歴史的なイベントを上げて、こうだからここがチャンスだったのだ、という説明をするのですが、一部のイベントについて自分たちの都合の良いように針小棒大に解釈していることが感じられて、「それは解釈としては無理でしょ」という感じを持ってしまいました。これについては担当の方とも何度か議論しますが、最後まで納得しませんでした。この復帰摂理の考え方は2000年ごろメシアとして統一教会の教祖が登場することの説明として使われるのですが、それはまた後程。
ビデオは1回1~2時間程度だったかと思います。ビデオを個室で視聴したあと、例の最初の女性とその上の方(まあワタクシに対する指導役ということでしょうか)とを交えて、感想を述べてディスカッションする時間が30分ほどあります。もともとここの教義はかなりきわどいところをついていて、ビデオの最初のほうで人間の原罪と性との関係について時間をかけて(創世記の話をもとに)説明されます。幸か不幸かワタクシは平均以上に性的な好奇心が強くて、セックスというのは気持ちがいいものでお互いに喜ぶものだという意識が強かったものですから、性を罪悪視するというそのとっかかりがそもそも理解できず、この点で教会の指導員たちとはかなり激論となりました(といっても先方は冷静に落ち着いて議論してくれましたが)。くだらない論点ではありますが、実は結構重要なのだと後で気づきます。まあ自分自身初めから疑ってかかっている団体の教義ですから、素直に受け入れる気がなくて、まあビデオを見ていくうちにぼろがでるだろうと思ってそのまま進んでいきました。
ビデオ研修の最終段階で、いよいよわれらが文鮮明教祖がメシアとして登場します。その持っていき方は何かドラマみたいでなかなか面白いと言えば面白い。私は初めから答えそのものは知っているので、ワクワクしながらどういうロジックで登場するのか楽しみにしていましたが、一言で言えば、そこに至るロジックは非常に雑であり、とてもまともに受け入れられるものではないのです。とはいえ、そこに至るまでの間、若者のキリスト教に関する知的好奇心をくすぐるような全体としては割とまっとうな(部分的には非常に牽強付会というか雑な)議論をしてきているので、なんとなくスーッと受け入れてしまう人がいてもおかしくなさそうな感じはしました。ビデオではまず、最後のメシアは「東方」に生まれるのだ、ということを説きます。なぜ東方なのかはよく思い出せません。そしてその次に当方の主要国として中国、日本、韓国(朝鮮)を挙げます。そのうち中国は共産主義だから駄目、日本は神道があるからだめ、とかいう理由で、さらに伝統的にクリスチャンが多いことを理由として、韓国こそそのメシアの降臨する神の国であると決めます。なぜ文鮮明氏がメシアであるかということに関しても、全く納得のいく説明ではなかったと思いますが、たぶんその韓国において彼の実際に行ってきたことからメシア性を推定しているということかな、と思いました。
III.興味本位の深入りそして淡々とした決別
さて、ここで正面切って教会の担当者とメシア性について真っ向対立すると、話はたぶんそこで終わってしまいます。しかしこの段階で、ワタクシはすでに次の行事に参加することが決まっていました。それは2泊3日の合宿研修です。同じような「生徒」たちが数人集まり、教会の合宿施設に行き、「正しい行い」をしながら教会の教義を学ぶ、帰依を深めるイベントです。やはりこれを経験せずしてまだ十分に理解したとは言えないと思って、参加しました。多少お金は払ったのかな?よく覚えていません。
今どこだったのかもよく覚えていませんが、自然豊かな場所でした。みんなで体を動かすこと、教義を学ぶことが中心の二日でしたが、滞在中毎日、一人一人で文鮮明(メシア)夫妻の写真の飾ってある部屋に行き、お祈りをすることを求められました。ワタクシはそんなことぐらいは全く平気なので、心を無にして毎朝お祈りの恰好をしに行きました。一緒に行った皆さんは本当に純粋な感じの方々で、このうち何人かが教義を継続して最後は熱心な信者となりいろいろ大変なことになるのかなぁと漠然と考えていました。
たぶんワタクシはこの合宿の後ほどなく教会施設には通わなくなりました。理由は、本業である学業が忙しくなったこと、それからそれ以上続けていたら本当にいろいろ絡め手で抜けられなくされるかもしれないと思ったことと、やはり真意を隠し続けてこれ以上やり続けるのが苦しくなってしまったこと、などです。もちろんもともと統一教会に対しては疑念の塊しか持っていませんでした。
今思えば逆に、なぜもっと強引に押し込まれなかったのだろうか、という気持ちがわいてきます。これは私の感想に過ぎませんが、彼らの教義で絶対に自分として受け入れられなかった点があったというのも非常に大きいと思います。それは前にも書いたようにビデオを見た後のディスカッションでも何度も激論を交わした点ですが、彼らがいわゆる性愛を罪であると断言してしまっていることです。この考え方は彼らの合同結婚式(個々人が性愛に基づく関係を自己決定できない。関係はメシアである文鮮明だけが決定できるといった考えだと思います)の考え方と直結しているのだと思います。ワタクシ的には、当時すでに様々なエロビデオや雑誌や友人の体験談などで男女ともにセックスがとても「いいもの」だという強烈な意識(こっちのほうが宗教がはいっているかもしれなかったですね、今から思えば)によって、そのような思想を受け入れることができませんでした。ワタクシが最後までこの点について納得していないことは教会側の人も十分理解していたと思いますので、結局「おまえなんか地獄に落ちろ」という形で見放されたのかもしれません。
IV.エピローグ
その後自宅住所を知っている担当の若い女性からは、何度も丁寧なお手紙をいただきました。きれいな栞やら手作りの聖書カバーやらと共に本当に優しい気持ちのこもった「励ましの」手紙を沢山いただきました。彼女から見ればワタクシなどは心が弱くて信仰の道に「挫けた」人なのでしょう。しかし私の方からはたぶん全くと言っていいほど返信はしていないと思います。今思っても善意に満ち溢れたいい子だったと思います。本当に申し訳ない。数年にわたり、お手紙などはいただきましたがワタクシが引っ越したりしたため最終的には完全に縁は切れてしまいました。当時住んでいたアパートに教会の人が来ることは一切ありませんでした。その意味ではしつこい勧誘とかはありませんでした。多分、もともとワタクシの言動から向こうも脈無しとおもったのかもしれませんが、それだけに担当者の純粋な行動に心が少し痛みました。まあそういうところから人々は転んでいくのかもしれませんが。
V.終わりに
以上、淡々とワタクシが体験した統一教会のしぐさを書いてみました。xx年前の話であり、いまはもう少し違った姿になっているかもしれません。そしてまあワタクシのような経過は割と特殊事例であり、多くの人は同じように論破してやろうと考えて入り込んでそのまま抜け出せなくなっているのかもしれません。ただ、ワタクシの話は間違いなくワタクシの経験したことです。何かの参考になればと思います。
どなたかもツイッターで書かれていましたが、こういった宗教などにはまるかどうか、はやはり孤独や何らかの不幸に見舞われているかどうかということが大きいのではないかと感じています。人は弱いものですから、そこに救いの手のようなものが延ばされたとき、簡単にそれにすがってしまうと思います。ワタクシは宗教そのものは全く否定していません。むしろ、その考え方とか哲学とか何らかのものは、それぞれの人生において何かよって立つものとして必要かもしれないと思います。共産主義だって一つの宗教といえますし、無神論というのは反宗教という名の宗教ということが言えます。多かれ少なかれ人々は自分の価値観なり考え方を持ち、しかもそれが完全に科学的に裏打ちされたデータや事実に基づかない中で価値判断をしなければいけないことの方が多いのですから、そこに何らかの考え方(哲学)による判断が介在します。その意味では誰も広い意味での宗教からは無関係ではいられないのだと思います。しかしながら、多額の寄付やお金を求められるような状況で家庭崩壊や生活のゆがみにつながるのでは本末転倒です。きちんとした考え方を通じて自分や周りをより良くしていくためのものが宗教であるはずです。
しかし、残念なことに一部の不幸な状況を抱えている人には、なにかすがるものを求める気持ちが強くなり、その弱いところに付け込み資金集めをしてそれを別の(まあある意味さらに「崇高」な)目的に流用していく団体もあります。ワタクシももし友達も彼女もおらずに、あるいは家庭環境に恵まれずに、お金もないような状況だったら、担当してくれた女性のやさしさを頼って教会の道を進んでいったかもしれません。幸いなことにワタクシは客観的には非常に恵まれた家庭に育ち、立派な親の理解の下で学校で何不自由なく勉強させてもらっていたし、好きな人も友達もいて、そのような対象ではなかった、たぶんそれだけの違いなのだと思います。
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