小●田事件
オリンピックの開会式音楽イベントを担当することになっていた某氏が、中学生ごろに同じ学校にいた障害を持つ子に対し陰惨ないじめをおこなったことと、それを25年前に雑誌で面白おかしく語っていたことがほじくり出され、担当を辞任(事実上の解任)することになったようです。ワタクシとしてもまあオリンピックやパラリンピックの「崇高な」理念にはそういう過去はあまりふさわしくないと思うので、そういう人は選ぶべきではなかっただろうと思いますから、結論としては納得できます。
しかしながら、どうも釈然としない。違和感があるのです。いじめの様子を面白おかしく語った記事が掲載されたのが1995年ということですが、それから25年以上彼は日本の音楽業界で活躍し続けてきたわけです。ウィキペディアなどでみても、色々なところに楽曲を提供し、Eテレ等の番組音楽も作成している。それがオリンピックの担当だと分かった瞬間に過去を参照されてSNS上で血祭りにあげられる。
もちろん時間がたったとしても、凄惨ないじめを受けた側の気持ちとして許すことができないということはあるでしょう。親御さんなどが事実を知っていたら本当に殺したくなるぐらいの内容でしょう。そういう内容を25年前に堂々と公表しているわけです。「オリンピックだから」彼は使っちゃだめなんだ、という整理にしないと、これまで業界や関係者が認めて評価してきたこととの整合性が取れなくなりますね。ところがEテレ等は彼の音楽自体を番組で放送しないという。まあテレビ局の方はきっと、そういうことを知っていれば採用しなかった、と言うでしょうが本当にそうでしょうか?これまでそういう若い時のやんちゃや「武勇伝」には多少目をつぶって、やはりその作品なりプロデュース力なりを評価してきたのではありませんか?だからこそ、今回(誰の推薦かはわかりませんが)オリンピックの担当に抜擢されたのでしょう。
ワタクシ自身は彼の名前を全く知りませんでした。自分だったら、やはり過去にそういうことをした人とは個人的には付き合いたくありません。自分自身も中高生のころはいろいろやられたこともあり、そういう連中に対しては大人になってもトラウマはあります。ただ、ワタクシが彼の名前を聞いてもそういう事実を知っても、そのことに嫌悪感はいだきますが、究極的には他人です。ワタクシが恨むのはワタクシに対して攻撃をしてきた人だけであり、某氏にはそういう感情は抱きませんし、音楽業界で活躍されているのであれば結構なことだと思うしかありません。いじめられた当事者が「あいつは人でなしだ」と叫ぶことは当然許されますし、業界関係者がそういう過去を持つ人間に対しネガティブな評価をすることもあるでしょう。そうすべきだったのかもしれません。ただ、過去においてそういう事例は発生してこなかった。オリンピックやパラリンピックという題材に乗った瞬間にそういう話しが登場してしまうことへの違和感だと思います。いわば、作者の人格と音楽性(もっと言えば芸術性)の関係について業界関係者の方々が、今後の彼とのビジネスの関係性を含めてきちんと整理する必要があるのだと思います。
自分自身これまでの人生でおそらく人として恥ずべき行動を全くとっていないとは口が裂けても言えない。これは自分自身が良くわかっている。まあ今回の事例では25年前のインタビューで中学時代のいじめを面白おかしく語っていたこと、その後も真摯な反省が表明されていないことなどが人々の逆鱗に触れたということでしょうが、いずれにしてもまだ少年の時代の行為について20代の未熟な若者が語った話しです。ワタクシはもちろんそういうレベルでのいじめはやったことがないですが、人に恥ずべきことが全くないかと言われれば、黙って下を向くしかありません。仮にオリンピックの仕事が舞い込んだ場合(ないない)、かつてNYで差別的な言葉をかけてきたアメリカ人にむかって「この毛唐め!」とか叫んだワタクシはオリンピック精神には明らかに反していると思いますので、それがばれたら辞任を余儀なくされたかもしれない。まあ程度問題であるとはいえ、人の過去などいろいろあります。聖書でも、姦通の罪に問われた女(当時は死刑です)に対し「罪のないものだけが石を投げなさい」とキリストが発言し、周りの者たちが一人ずついなくなり誰も石を投げないというシーンが描かれています。
繰り返しになりますが、ワタクシは今回の辞任劇はオリンピックという場にふさわしくない人であったという点ではやむを得ないと思います。一方で、これまで長期にわたってスル―されてきた問題がここでオリンピックというテーマとの絡みで大問題となることへの違和感があったということは書いておきたい。同じように教育的配慮のあるシーンや公的なイベントも彼は多く手がけててきたはずなのにどうしてスルーされてきたのか、今後もオリンピックという場を離れれば、彼は従来通り評価され仕事ができるのか、ということに関して、業界の方がどう見ておられるのか、ちょっと知りたい気がします。
そもそもオリンピックやパラリンピックの「崇高な」理念自体怪しくなっていますね。個人的には、東京オリンピック招致は大反対でしたし、ましてや7月開催など狂気の沙汰だと思っていたので、その背景にある様々な状況に思いを馳せれば、もはやオリンピックなどなくてもいいかなと考えています。当然チケットも申し込んでいませんし、みに行くつもりもありません。もともとスポーツ観戦は好きなので、まあテレビでは見ようかなとは思ってましたが、最近では今回の開催可否をめぐる問題の根っこに放映権問題が深く絡んでいることから、その気も全く失せました。オリンピック期間中は毎日ちゃんと仕事をして、帰ってビール飲んで寝ることにします。今回の某氏の事件で、ますますオリンピックというものの持つ人を狂わせる性格、利用されやすい性格を強く感じました。次の冬季が北京であることについても、別の意味で非常に嫌な予感しかしません。オリンピックというイベントはそろそろ形を再検討する時期に来ているのではないでしょうか。
この記事へのコメント
音楽関係者にとっては降って沸いた事態では無く、五輪という注目されるイベントであるからこそ、なるべくしてなった失脚でしかないのです。